ブラックマンデー
1987年10月19日、アメリカ取引市場でニューヨークのダウ工業三種平均インデックスは一気で暴落した。それは歴史上、暗黒の月曜日(ブラックマンデー)と呼ばれている。当日、アメリカ取引市場は記録的に506.32ポイントの暴落を演じた。それは実際に23.6%の下げである。そして、それは1929年以来、歴史上最大の下げ幅ともなった。その事件の背景は一体何であろうか。それとも、その事件はなんの理由もなく、ただの偶然だったのであろうか。本章では、その事件の背景にあるさまざまな要因を分析し、その原因として考えられていたアメリカ政府の数々の政策の役割を検討する。
まずは、ブラックマンデーの事件の性質とその背景について考えよう。実は、この事件の背景には、最も重要な要因は当時アメリカ政府が打った財務政策である。具体的に言えば、アメリカでは、レーガン政権が現れたとき、ドルの価値は他の通貨よりかなり強かったのは実情であった。ここで、ドルが強かったとはどういう意味か、まず説明していこう。ドルが強いとは、アメリカの輸入会社が外国から安い製品を買い、自国で高く売買できるため、言うまでもなく輸入量が増えるということである。このとき、ドルがあれば、金を儲けるからみんながどんどんドルを買うということになる。だから、それはドル買いという時期と呼ばれている。ところが、輸入が増えれば増えるほどアメリカの貿易は赤字になるのは当然である。それに、当時はアメリカのインフレ率も上昇していたから、財政赤字も拡大しつつあった。その二つの赤字をまとめれば、経済学では双子の赤字ともいえる。
図一をご覧ください。この図は1980年から2004年までのアメリカの経常赤字、財政赤字そして国防収支を示したものです。この図によれば、1980年のとき、ドルの価値は高かったため、1984年の終わりごろまで、アメリカの経常赤字、財政赤字そして国防赤字がすべてマイナスになった。このまま進めば、大変インフレの状況に見舞われる恐れもありました。
だから、当時アメリカ政府はその双子の赤字を是正するために、輸出を増加させようと考え、ドルの価値を下げようと思った。そういう目的で、みんなさんご存知だと思いますけれども、1985年アメリカのプラザホテルで世界のG5 主要国(ドイツ、英国、米国、日本、フランス)の首脳会議が行われました。それはプラザ合意とも言われます。プラザ合意で決定した政策は具体的に言えば、米国は自国で金利を引き下げ、市場への通貨供給量を増加させる一方、他国は金利を引き上げ、アメリカからの輸出を増加させるということになりました。
また、図1をご覧ください。1985年以降はアメリカの経常赤字、財政赤字そして国防赤字はいっそうプラスになり、インフレを少しだけ是正されました。しかし、1990年以来、米S&l 危機、米LTCM危機そしてITバブル破壊に見舞われ、再びマイナスに陥りました。だが、今そう話をすると、範囲が広すぎるから、ブラックマンデーの事件まで話を絞っていこうと思っています。
さて、プラザ合意の後は、期待通りドルの価値がだんだん減り、市場への通貨供給量は増加されたため、アメリカではインフレ率は高くなりました。しかし、問題点はこれだけではなかった。実は、1980年の前半には、アメリカの財政赤字問題が拡大し、ウオ―ル街では外国人の投資家の動きは重要性を増やしてきた。1986年末までは外国人投資家によるアメリカの株保有高は1674億ドルに上がっていました。この数字には、株保有高だけが入っている。もし、債券を入れれば、更に大きな数字となります。結局、同年末までは、3090億ドルのうち、ヨーロッパの投資家が2180億ドル、カナダ310億ドル、そして日本は253億ドルを占めていました。

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しかし、ここで一番重要な点は西ドイツの反応でした。まず、西ドイツの実情を考えてみよう。当時、西ドイツは大変インフレ率に見舞われ、財政赤字がどんどん拡大していきました。そのとき、アメリカにとって金利引き上げという政策を打つのは可能だと思われますが、ドイツとしたら、それ以上金利を引き下げすれば、大変な状況に陥る恐れがありました。だから、ループル合意後は経済主要国の期待通り金利引き下げを実行せず、自国の財政赤字を是正することを狙い、逆に西ドイツは金利引き上げという政策を取り組みました。それは、アメリカでは非常に批判された一方、株式市場でも不安を及ぼしました。しかも、87年10月15日の記者会見では、ベーカー米国財務長官が西ドイツを名指し、批判的な意見を発表しました。これはすでに不安に陥った株式市場の暴落の引き金を引いた。市場はこの発表を米国、西ドイツと日本の不況和音として受け止めた。
それによって、市場では、ドルは更に価値を下げ、もっと安くなるという懸念になりました。したがって、ドル売りという傾向は刺激されました。この日までは15年ぶりの経済成長による高水準に達成した米国市場にもドル売りが波及しました。米国市場で株を持っていた投資家がどんどん株を売るようになりました。それは、歴史上の最大の株価暴落の日を導いた。それはブラックマンデーと呼ばれています。
それは日本にどういう影響を及ぼしたのかを考えよう。図2をご覧ください。これはブラックマンデーの後、つまり1987年から89年までのドルと円の為替レートを示したものです。この図によれば、ブラックマンデーの87年の1ドルの価値は160年から88年まで120円まで弱くなりました。それ以来も、ドルと円の為替レートには目立つな違いはありませんでした。それによって、円高に見舞われ、日本の輸出会社がどんどん損を受けたのはたぶんみんなご存知だと思います。
図3をご覧ください。これは当時の日経平均指数を示したものです。87年の頭ごろの18000点から1987年10月19日まではこの指数は26000円の水準まで達成しました。しかし、ブラックマンデー以来は急に下がり、その後、政府によるの対策の結果、前の水準に戻しました。

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更に、ドル安がこのまま進めば、日本と英国とドイツにとってはとんでもないことになるため、この国々はドル安に歯止めをするために、逆にドル買いを続けていきました。1985年末まで、そのドル買い金額は460億ドルに上がりました。
しかし、プラザ合意後当時のアメリカでは、通貨供給量はどんどん増加し、ドルは価値を減り、市場にはすでに不安材料が増加しました。それによって、財政赤字、経常赤字が一応是正しました。だが、インフレ懸念が強化され、今度ドルが安くすれば、またとんでもないことになるのは当然でした。
そこで、アメリカ政府はループル合意を決意しました。そのループル合意が行われた最大の原因は過度に価値を失ったドルをもう一回、ドル高の方向に進ませることでした。特に、西ドイツ、日本、英国による金利引き下げは最も優先された狙いでした。ドル高をするために、アメリカが自国で金利を引き上げ、ループル合意の他国は自国で金利を引き下げするのは期待されていました。この合意の決断はアメリカ市場をはじめとして、世界市場にも大きな影響を与えました。

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では、前に述べたような流れで、1987年10月19日のこの株価暴落はそのときの実情でした。しかし、実情はこう言う風にあったとしても、このような急速に株価が暴落するのは不可能だと考えている人はたぶん多いと思います。やはりそれは考えた通りです。それにも具体的な原因があります。それは、株式市場の取引が自動化されたということです。
1980年代の前半まで、投資家らが市場ではお互いに取引を行い、自分の意思で株を売買していました。ところが、当時、市場では株式はすべてコンピュータ上で、取引されるようになりました。しかも、株式取引を中心としたコンピュータのソフトとプラグラムが紹介され、そのプラグラムを使い、すべての情報が公開されていたため、投資家らがこれによって、株を買うか売るかを判断しながら、取引をやってきました。それは当時、プラグラム売りまたはプラグラム買いと名をつけられていました。しかし、そのプラグラム取引には、大きな特徴もありました。それは、株が下がると、自動的に損失限を限定するということでした。
詳しく説明すれば、もしも株価が上がるとしたら、投資家が自分の判断でどれぐらい株を買うかを決めるのは常識であり、当たり前です。しかし、株価が上がれば、上がるほど利益になるから、それには限定がありません。一方、もしも株価が下がるとしたら、株を早く売らなければ、どんどん損になるのも当然です。そこで、限定を決めるというプログラムでした。もし株価が投資家によってすでに決められていた一定の水準を下げたら、プログラムが投資家の意思はなくても、自動的に株を売ることになっていました。
したがって、87年10月19日の直前、市場ではドルが更に安くなるという懸念があったとき、ドル売りが行われた結果、株を売るようになりました。それによって、株価が急に下がりました。それはある水準を超えたとたん、プログラム売りでは株を売るスピードも速くなり、すべての投資家が使っていたプログラムが一緒に株を売るようになりました。だから、下げが下げを呼び、プログラム売りによって株を売るスピードも急速になり、最悪の状況になるわけでした。そういう流れで、短期間にアメリカ株式市場は未曾有の株価暴落を経験しました。
以上、87年10月10日アメリカ市場のブラックマンデー、つまり株価暴落の背景、そのさまざまな原因、そして世界に及ぼした影響を述べてきました。確かに、各国の経済の状況は国ごとに違っているし、経済成長を遂げるためにどんな政策が必要なのかも国ごとに異なっている。しかし、現在のように、当時もある国が自分だけで経済成長を実現するのは不可能ではなかったでしょうか。そこで、世界の各国の経済的な協力が必要となります。しかし、経済的な協力というのは全世界の力で、自分だけの利益を認めることではなく、自分の利益のために各国の力を強制的に合わせて協力させることもない。世界各国の利益を得るために、各国の経済状況との違いを認め、一緒になり、他国が経済発展しない限り、自国の経済のために何の力にもならないということを理解しながら、互いに助けになるということではないでしょうか。当時、プラザ合意とループル合意を経て、アメリカ政府が取り組んでいた政策は他国の経済状況を無視して、強制的に彼らの協力を認めるものだけではなかったでしょうか。
だから、政府の役割の拡大によって、各国の株式市場を安定化し、その本格的な協力を求めない限り、この意見も変わらず、ましてブラックマンデーという事件が未来二度と起こらないのはあり得ない。
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